ニヶ領用水

このニヶ領用水のページは、僕がニヶ領用水に、行ってデジカメで撮ったりして、いろいろと、ニヶ領用水の事を研究して発表しています。
それに興味を持った理由は、2つあります。
1つの理由は学校の社会科見学で、ニヶ領用水の勉強をしたことがきっかけです。それをした場所は、とどろきアリーナの、市民ミュージアムです。
もうひとつの理由は、僕がサイクリングが好きだからです。でも、ぼくだけでは、遠くへ行けないので、お父さんといっしょに行くことにしました。
ぼくは用水が多摩川から鶴見川に流れていることが地図からわかりました。

ニヶ領用水とは

今から、400年前に作られたと思われる川崎の用水です。
作った人は、小泉次大夫と言う人です。
小泉次大夫は、徳川家康と、大体同じころに生まれた人です。
小泉次大夫は、このリンクの先に、説明と写真があります。
この用水は、主に灌漑用水(米を作るための用水)と、されていました。
水を取り入れる堰は、2堰あって、両方多摩川の多摩区から取り入れています。
一つの堰は、このリンクの先に、写真と説明があります。
その水は、高津久地合流地点で合流します。
次に久地円筒分水で、4本に分けます。
詳しくはリンクの先です。
円筒分水には、決まった水の量しか行かないので、残りの水を平瀬川に流します。
平瀬川にある魚道の説明は、こちら。


新しく、ニケ領用水の写真集を作りました。
少し重いけど、見てください。



これは、ニヶ領用水で主役の、円筒分水といいます。
このしくみは、水がどんどん外の方に泉のように、吹きこぼれるような仕組みで4つに分けます。
昔は、これではなく
分量樋という機械で分けていました。その機械は、用水の中に分ける板があった仕組みです。
それでも、日照りが続き真中の方にしか水が流れなくて、はじのほうは不公平でした。そのせいで溝口村騒動と言う争いがおこってしまったのです。
当時はほとんどが、米で税金を払っています。このニヶ領用水も本当は、灌漑用水(米を作るための用水)です。だから溝口村が、川崎領に流している川崎ぼりをせき止めてしまいそして争いが始まったのです。
それで平賀栄治が水を公平に分ける道具を考えました。それが当時の最新技術を駆使した円筒分水です。円筒分水は、日本初の、用水を公平にに分ける機械です。(したがって、国の文化財とされています。)
工事を担当したのは田中丘隅と言う人です。田中丘隅はその他、土を掘ってできた用水路をコンクリートにしたり、なるべく用水をまっすぐする工事をしました。


これは、魚道です。
魚道とはこの階段のようなところを、少しずつ魚がはねて上ります。たまに水の流れで横や、後ろに流されます。この川は、宮前区から多摩川へ流れています。(名は平瀬川)

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これは円筒分水の小杉、溝口ぼりです。
海側から山側に向いて、左から根方、川崎、小杉、溝口ぼりです。
大きさでは川崎、根方、小杉、溝口です。なお根方、小杉は同じ大きさです。


これは、僕は昔に使われていたと思う板堰だと思います。板堰は、コンクリートの所に、板を入れて、水をせき止める仕組みです。僕が知ってる堰はこれだけです。


これは根方ぼりが、大きくなって江川と言う名で川となったので、色々な工事予定が立てられています。それがアクアプロナードと言います。これは矢上川という川へ流れます。矢上川は、鶴見川へ行きます。


これは川崎ぼりの最後の堰です。右から流れてきて奥のほうへ行くのが本流です。これも矢上川へ行きます。


これは、用水のもう一つ大事な取り入れ口です。これにも魚道はついています。用水は、手前の方にあります。ニヶ領用水の堰は、2つありその下側の宿河原取入れ口です。これは宿河原にあります。上の方には上河原取入れ口です。これは中ノ島にあります。


これは川崎区の宮前町の妙音時にある像です。この人は、小泉次大夫です。
次大夫がニヶ領用水を作りました。
僕は、このまえ用水は、三万三千歩近くを、14年工事しているとると書いていたので、僕はびくりしました。(東京の方の工事も合わせての事です。)
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