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2005年5月(高校一年)

龍安寺から嵐山へ(旅行その8) 2005/05/01
考えてみると、今日から五月、旅行に行ったのは三月の中旬です。

もう一ヶ月半が経とうとするときになっていまだにこの旅行についての記事が一日目でストップしています。
なんとしてでも、この日記で一日目の旅行の内容を書ききりたいと思いました。
たとえ、旅行から今日で一ヶ月半が経ったとしても、単純計算で三日目の内容まで書ききるには四ヶ月半もかかってしまうということになってしまいます。
それでは八月になってしまいます。
そんな時期になると、旅行で気づいた細かいことまで忘れてしまいます。
できれば、もう少しスピードアップして書いていけたらいいなと思います。



前回は、龍安寺のところまで書きました。
龍安寺から、予定としてはバスで仁和寺というところに行くつもりでしたが、「妙心寺退蔵院」にはある決まった時間に行かなくてはならなくて、余裕を持って行くために、行くことをやめたのです。

ということで、仁和寺に行かなくなったので次に行く天龍寺に向かうことにしました。
天龍寺へバスで行くのはもったいないということで、嵐山を走る路面電車(愛称:嵐電)に乗ることにしました。

写真には撮っていませんが、龍安寺前駅に行くまでの道路沿いにあった家々もとても風情のある家でした。
京都らしい町並みをこのときはゆっくりと散策できたように思えます。

左上と右にあるのは乗った車両の写真です。
左上が京福北野線を走っていたものです。
僕は龍安寺前から帷子ノ辻(かたびらのつじ)まで乗りました。
それに対し、右の写真の茶色の電車は京福嵐山線を走っていたものです。
僕は北野線の終点帷子ノ辻から嵐山線の終点嵐山まで乗りました。





確か北野線の列車に乗っているときに撮った写真だと思いますが、運転席の横にこのような看板(?)が張ってありました。
運転中は話しかけるなって事は、とまっているときには話し掛けても良いのだろうかと思いました。
実際のところ、列車を降りる際にお金を払うんだから、とまっているときには運転手に話しかけるなぁって気づきました。









右にある写真は、嵐山名物の渡月橋の写真です。
今ではもうコンクリートで作られて、アスファルトで舗装されて普通の橋とさほど変わらないものになってしまいました。
渡月橋は京都での行事に使われたりもするそうです。
あまり時間がなかったので、写真を撮って、ほんの少しだけぼぉっと見て、すぐに歩き始めてしまいました。
まだ、正午にもなっていませんでしたが、豆腐コロッケという物を売っていたので、それを食べて、軽いお昼を済ませました。
ちょうどその日は雨が降ったり止んだりの不思議な天候でした。
コロッケを食べている間は雨が降っていたというのに、食べる前と後は雨が止んでいました。
まぁ、食べているときには雨宿りのできる場所で食べられたので、良かったのですが・・・。

この後に、天龍寺に行ったのですが、その話しは次の日記で書こうと思います。


天龍寺から妙心寺まで(旅行その7) 2005/05/05
軽いお昼を食べた後に、渡月橋を横目に見ながら天龍寺の方へ向かいました。
といっても、修学旅行のときにも個人行動で天龍寺に行って、庭園を見てきたわけなので、今回は違う場所を見ることにしました。
ということで、今回は天龍寺塔頭の弘源寺(こうげんじ)に行くことにしました。

中に入るとガイドがいて、個々に寺のことを紹介してくれました。
こ唯一ここの庭園からは嵐山名物の嵐山が見られるらしいのです。
ということは、他の庭園からは嵐山が見られないって事なんですね。
でも、その嵐山を背景にした庭園は、そこまで大きくはなかったのですが、落ち着きのあるものだったと思いました。

もう一つの見所が、本堂にある柱です。

ここの柱には刀傷が残っているのです。
これは、幕末に長州藩が天龍寺に陣をかまえたときに、長州の武士がつけたようです。
自分の刀が本当に人を切ることができるのだろうか? そう考えて試し切りをしたかったからなのだそうです。
この戦いの結果というのは、やはり行いが悪かったためか負けたと聞いたのですが、それについての資料が見つからないので、結果はわかりません。
刀傷とかは良かったのですが、あまり見るところがないわりには拝観料が高かったように思えます。
結局ここでは写真を撮り忘れてしまいました。

次の予定地は弥勒菩薩像で有名な広隆寺だったのですが、妙心寺にも行きたかったので、カットして妙心寺にバスで向かいました。
妙心寺塔頭の退蔵院というところにある瓢鮎図が見たかっただけなのですが、予約さえすれば無料で案内をしてもらえるということで、予約をしていたからです。
予約なので、時間とかも書いていて、その時間までは妙心寺で時間を過ごそうと思いました。

僕は妙心寺には行ったことがなかったのですが、修学旅行のクラス行動で行った人によると、とてもよかったと聞いていました。
入ってまず、思ったことは、敷地の広さです。
10万坪はあるそうです。
さすが臨済宗妙心寺派の大本山だなぁとおもいました。
中学二年生のときにいった鎌倉にある臨済宗円覚寺派の大本山円覚寺などもとても広い敷地に驚いたように覚えています。
妙心寺も、円覚寺も塔頭の数がとてつもなく多いです。
妙心寺の塔頭の数は46もあるそうです。(多いときには80余もあったらしい)
今は、ぜんぜん違うところにあるように見える龍安寺(臨済宗妙心寺派)も、昔は広大な妙心寺の敷地の中にある一塔頭だったのだそうです。
普通に寺を回れば3時間かかると言われているのですが、そこまでゆっくりするわけにもいかなかったので、妙心寺の主要なところをめぐるツアー(20分おき,無料)に参加しました。
入場券(兼パンフレット)のサイズはB4サイズで、とても大きかったです。
まず最初に入ったのは法堂です。
ここには、パンフレットに全面印刷もされている天井画雲龍図があります。
係員が南京錠のようなものをあけて大きな入り口の扉が開きます。
入ると、正面に靴を置く場所があります。
靴を置く場所の裏には、壁がありました。
建物の設計で、中のものはすぐには見られないようになっているんだなぁ、って思い、わくわくしながら中に入っていきました。
雲龍図は予想以上に大きなものでした。
中では、重要な儀式などが、いまでもおこなわれているそうです。
天井にある雲龍図は八方にらみの龍として有名です。
その説明で、制作には8年間かかり、そのうち構想に3年、筆で絵を書くのに5年かかったと聞いたと思います。(数字が違うかもしれない。)
書いた人は、あの有名な狩野探幽です。
この天井画はとても大きいのですが、これを壁のようなものに立てかけて描いたそうです。
現在、天井にあるように見えるのは、上からその狩野探幽が書いた八方にらみの龍をつるしているからなのだそうです。
狩野探幽は、絵を立てかけて筆を持っているときから、ちゃんと天井につるすことを考えていたようで、どの方向からその龍を見ても、自分の方を向いているように見えてしまう不思議な龍なのです。
この龍のすごいところは、どこにいてもにらまれているように見えてしまうことなのです。
だから、まぁ八方にらみの龍とついているのですが。。。
でも、画竜点睛という故事成語もあるように、龍は目の二点だけで決まってしまうのですね。
この妙心寺の龍の目の位置が正しかったためなのか、どこから見てもにらまれたようになってしまうのですから。。。

同じ法堂の中に鐘が釣ってありました。
話しによると、この鐘は昔までは釣っていたものだけども、特に内側などに亀裂が一部入ってきて鐘をたたいたときに破壊されてしまうのを防ぐために、新しい鐘を鋳造して、古い方は保存しているそうです。
鐘というのは、古い鐘であればあるほど、鐘のつく位置が高いところにあるそうなのです。
妙心寺の鐘は698年の作で、日本最古なようです。
だから、鐘をつく位置がとても高い場所にあります。
その後も寺を見ていったけども、やっぱり最も古い妙心寺の鐘の、つく場所は高いところにありました。
最後にまわったのは、浴室です。
明智風呂とも言われているものです。
今のお風呂とは違って、昔は蒸し風呂だったようです。
でも、部屋の中は傾いていて、排水溝に水(汗?)が集まって流れ出すという仕組みになっていたりして、構造がとてもすばらしかったです。
このお風呂は、昔、日を決めて一般の檀家も利用できるようになっていたそうです。
ただ、僧とは違う日に定められていたそうですが。。。
でも、僧がこのお風呂に入るときには読経をしながらこの蒸し風呂に入るということらしいです。
蒸し風呂は、入っているだけで汗をかくというのに、読経もしていたらすさまじい汗が出ることでしょうね。
妙心寺のなかには、重要文化財や国宝といったものばかりで、写真撮影が禁じられていたために、またもや妙心寺でもなにも撮影をすることができませんでした。

できれば、妙心寺の塔頭の退蔵院についても書きたかったのですが、タイムアップです。
また、今度退蔵院について、写真つきで、日記に書きたいと思います。


退蔵院(旅行その8) 2005/05/07

今回の旅行で、ここ退蔵院だけは、往復はがきで特別拝観の予約をしていました。
それと同時にお抹茶の予約もしていました。

入り口から入れていただき、まずは「狩野元信の庭」というものを見させていただきました。
その庭のことについても説明してもらえました。
狩野元信は、室町時代後期の画家として有名でしたが、絵画を立体的にあらわそうとしてつくっていたのだそうです。
真中には、亀の形に配置された石組みがあったりしました。
今まで見てきたほかの庭園とは一味違い、本当に絵画的な雰囲気がよく感じられました。

また、昔の「都林泉名勝図絵」というものにも「画聖古法眼元信の作なり。他にこのたぐい少し」とも紹介されたそうです。
この図絵には庭の細かいスケッチも載っているそうなのですが、そこのスケッチの岩と見比べると、現在の岩は風化して沢山の細かい石に分かれている様子が見られろそうです。
退蔵院が建立されたのは応永11年(西暦1404年)だということなので、たったの600年で風化をしてしまったことがわかります。
あの硬い岩が、雨風のたった600年間ほどの影響で細かくなってしまうことにとても驚きました。
でも、庭園に運ぶ石は、できるだけ軽いものを使ったりしていたためにすぐに風化してしまったのかもしれませんけどね。

話によると、昔はこの庭園だけで周りは竹やぶだったそうなのです。
でも、昭和に入ってからその竹やぶで竹の花が咲いてしまい、後には急に竹林の竹すべてが黄色くしなびてしまって大変なことになってしまったそうなのです。
その話してくださった人もその当時から退蔵院にいらしたそうでその竹の花とかをみたそうで、詳しく話していただきました。
結局その竹林はすべて一掃されて、そこは新しく「余香苑」という大きな庭園になったのです。
この余香苑のことは後で書きます。

次に見せてもらったのは、退蔵院の茶室です。
昔、退蔵院では修行の妨げになってしまうとして、茶の湯は禁止していたそうなのですが、ある人がどうしても茶の湯をやりたくなり、密かに茶室を作ったのだそうです。
普通の茶室よりは小さいものですが、外から見てもぜんぜん違和感のないように設計されていて、ばれないように努力をしていたんだなぁと思いました。
中には「一」という一文字が飾られていました。
たぶん「一期一会」と同じような意味合いをもって、茶の湯の精神を表しているのではないかなぁとおもいました。
その茶室にじっと座りながら、昔の人はこんな感じに中庭を見ながらお抹茶などをのんでいたんだなぁと思いました。

そのつぎに、退蔵院で有名な瓢鮎図(ひょうねんず)を見ました。
これは、足利義持が「ひょうたんをなまずでつかまえるにはどうしたらいいか」といった問いに対しての様々な識者の意見と、人がひょうたんを持ってなまずを捕まえようとしている図がいっしょになったようなものです。
今は、なまずのことを鯰と書きますが、昔は鮎と書いていたそうです。

手前にあるものほど細かいところまで書いて、背景となっている山はおおざっぱにぼかして描くことによって遠近感をはっきりとあらわすという効果を生み出しているようで、遠近が上手く調和しているところがすばらしかったです。

お茶菓子とともにお抹茶をのみながら、庭園を眺めているのはとてもよかったです。
左にある写真は、そのお抹茶を飲ませていただいた部屋から庭を撮影した写真です。

この庭が、先ほど書いた余香苑というものです。





ここの庭園は中に道がついているために、様々な方向から眺めることができます。眺める方向によって庭園の雰囲気がぜんぜん違っていたのでとてもすごいとおもいました。

右にある写真は、その庭園の写真です。
一番全体像が見やすいのではないかと思う角度から撮影したのですが、やはりこれは足を運んでゆっくり見るともっといいと思います。
この写真もクリックをすると、拡大したものが見られます。


ここの庭園は、住職自身が毎朝、丹精こめて砂などの整備をしているそうです。
僕はてっきり他の人がやるのではないかと思っていました。



この庭園を歩いていると、途中の分かれ道のようなところの片方に左の写真のような張り紙がありました。
そこには「恐れ入りますが 工事の為 右側より通行して下さい 院主 合掌」と書いてありました。
このような張り紙に「合掌」とかかれていると、とてもその張り紙から「気」のようなものが伝わってくるように感じられました。











左にある写真は、退蔵院で見つけた写真です。
土壁にこのようにひょうたんのくりぬきが作れるんだなぁと思いました。













他にもいろいろ見た後に、バスで島津製作所をみてきました。
といっても、正門だけ見ただけです。
そこからは京福電鉄嵐山線に乗れるので、そこから二回乗換えをして、ホテルに一度戻りました。


退蔵院ホームページ