喪中のご挨拶:祖父を追悼して

城山からの桜島

本年も残すところ僅かとなりました。本年は3月に婚姻届を提出し9月より夫婦でイギリス生活を開始いたしまして、大変変化の多い一年でありました。お世話になりました皆様にこの場を借りて感謝を申し上げたいと思います。

4月に祖父が他界し、服喪中のため新年のご挨拶を遠慮させていただきます。祖父は多くの孫や曾孫に恵まれ、生前は曾孫が生まれるたびに喜んでいましたが、コロナ禍のため晩年はあまり会う機会がありませんでした。葬儀やその後の法要においても私の親世代のみの少人数で執り行うこととなりきっと寂しい思いをさせてしまったと思うと無念な気持ちになります。(なお、墓前では親が私の結婚について報告してくれたと聞いており、きっと喜んでくれていることと思います。)私個人としては、未だに祖父の死を実感として感じることができておらず、複雑な気持ちのまま今に至っています。せめて私の祖父について、このブログに投稿することにより何より自分の気持ちを整理したいと思い文章を書いています。


陶芸家萩原啓蔵は 4月17日に永眠いたしました。 たくさんの個性豊かな啓蔵作品 を遺し、充実した人生だったと思います。これまで応援してくださった皆さま、本当にありがとうございました。
本人が大好きだった桜島をバックに、啓蔵ぐい呑みを撮影しました。もったりとした白い釉薬の力強さが今更ながら絵になる良い作品です。(2021/04/19)
萩原啓蔵陶芸ギャラリー

祖父は代々奄美大島の家系でしたが、曽祖父が東京で働いていたこともあり東京市で生まれました。祖父が小学生の頃に奄美に戻ったそうです。その後本土(鹿児島市)に移り、さらに大隅半島にて陶芸家・啓蔵として活動を開始しました。
祖父は個性的な作品を生み出す陶芸家でした。様々な岩石などを採取してはそれらを配合し釉薬(素焼きの陶器の上に載せて焼くことで色や表面の構造をつくるガラス質の層)を独自に開発しては様々な陶芸作品を生み出しました。

私が物心がついたときには陶芸家として活躍しており、それが当たり前と思っておりましたが、その研究熱心な姿勢やこだわりの様子は多分に私の人格形成に影響したものと感じています。祖父の作品を多くの人に知ってもらおうと、20年ほど前(?)よりWebページ上で写真ギャラリーを開設しています。特に啓蔵氏は蒼色を始めとした独特な発色の釉薬や、「かいらぎ(梅華皮)」と呼ばれる釉薬の熱による伸縮に伴う凹凸を伴う不定形な網目状の構造や「虫食い」の構造は大変美しいものです。祖父は商業的な展開よりも、作品の完成度へこだわりを強く持っておりそれゆえに個性的な作品が多く生み出されたと思います。もしよかったら以下のリンクより祖父の作品を見て楽しんでいただけましたら、きっと祖父も喜ぶと思います。


陶芸工房は人里離れたところにあったので、祖父母に会いに帰省する際には毎回長時間の移動が必要でした。そのためあまり頻繁に訪れることはできませんでした。しかしながらコロナ禍が始まる直前の2019年の年始にイギリスより帰国した際に訪れることができましたことは、せめても良かったことに感じています。(冒頭の桜島の写真は祖父母に会いました後に家族で鹿児島市の城山から眺めた景色です。)

本年の4月には初めて私が主導して理研の加速器施設で実験をしており、日本に出張として帰国していたタイミングでした。一週間にわたって昼夜問わず行われた実験は無事に予定通りに終了し安堵しておりましたところ、その翌日に祖父の訃報に触れることとなりました。コロナ禍ということもあり、はるばる鹿児島へ多くの親類が集まることははばかられることもあり、せっかく日本に滞在していましたタイミングで葬儀に参列することを諦めざるを得なかった際は大変悔しい思いをしました。一周忌法要のタイミングでも仕事の研究の予定上帰国が難しいですが、来年のどこかのタイミングでコロナの国内での感染者数が落ち着いてきました頃に墓参したいと考えています。


ここ最近は、奄美の先祖の戸籍(除籍謄本)を取り寄せることで改めて祖父母やその親類の人生を顧みたりしています。私が生まれた際にはすでに祖父母は大隅半島で暮らしておりましたため、奄美大島には未だに訪れることができておりませんが、琉球や薩摩藩の影響を受け(搾取され)、第二次大戦後にはGHQの占領下にも置かれた奄美の近世以降の歴史を少しずつ知ることができればと感じています。

曽祖父の戸籍を見ると、昭和の初期に改姓をしました記録が残っており大変興味深く思っていました。生前祖父から聞いたところによると、奄美の人は一文字姓の人がもっぱらでしたが、関東大震災の際に韓国人が大虐殺された事件をきっかけに、本土の人から韓国人に疑われぬようにと改姓をしたと聞いていました。そもそもなぜ一文字姓の人が多いのだろうかと不思議に思っており、検索しましたところ偶然おもしろい資料が見つかりました。

この研究では奄美大島ではなく隣の喜界島を対象としておりますが、基本的には類似した事例として考えられます。薩摩藩の支配下に置かれておりました時代に奄美の人々は本土の人と区別を行うために、苗字を名乗る際には一文字の苗字を名乗ることを余儀なくされていたそうで、明治政府以降の戸籍上にもその姓が反映されたそうです。一方で当時の奄美の人々の家族観も現代のものとは異なり、ハロウジと呼ばれる集落における地縁のようなものに基づいた親族意識が基礎となっており、姓に代表される家族という概念が主立ってきたのは1920-30年代ごろからとのことのようです。そのため1920年前後においては(今で言う)家族内において同一の姓を名乗る必要性がなく、兄弟間で異なる姓を持っていた時代があるようです。本書で取り上げられている例としては、福さんの一家で生まれた子に正一郎と名付けることで、福正/一郎と読ませるが、その弟が正二郎である必要はない、というもののようです。祖父も出生当時には同様の手法で漢字3文字の名を受け、一文字姓と組み合わせることで実質的に2文字姓と2文字名と親族間で認識されていたようです。しかしその後曽祖父が戸籍上の姓を2文字姓に改姓届けをだすこととなり、その後は2文字姓+3文字名として行政手続き上は扱われるようになったそうです。(文献の調査では米田/田ハナ子さんというような人の存在が確認されている。)


祖父本人も戸籍上の名前は納得しておりませんでしたこと、また祖父が陶芸家としての啓蔵との名を持っており僕が子供の頃から呼んでいたように、これからも「啓蔵さん」として祖父のことを呼び続けたいと思っております。

啓蔵さん、今までありがとう。あの世でも研究熱心に何かを探求しつづけてくださいね。僕もがんばります。