17年ぶりの火星の大接近 — 2003年当時、谷内少年は宇宙少年だった? —

日本も肌寒い季節になってきましたね。一時帰国(前回のブログ記事参照)の自主隔離期間も明日でおわり、自由に外に出られるようになるはずです。その後しばらくすると、イギリスに戻るわけですが、きっとだいぶ寒くなっているのだろうなぁ。


夜にふと空を見上げると、南の空に赤い星が見えますね。火星です。御存知の通り、太陽系の惑星としては地球の一つ外側の軌道を地球よりも倍近い時間をかけて公転する天体です。公転の周期が異なるため、地球は約2年2ヶ月おきに火星を追い越します。まさに今がその時です。地球が火星を追い越すとき、火星は見かけ上、一旦夜空の中で止まり(留)その後逆向きに動くように見えます(逆行)。そして、太陽と地球、火星が一直線に並ぶ瞬間(衝、または会合)に達します。(詳しくは、国立天文台の「こよみ用語解説」を見てみてください。

地球の軌道に比べ、火星はやや楕円形の軌道を描いており、会合点によって最接近時の距離が異なります。今年の火星は17年ぶりに軌道が接近している点で会合を迎えています。次にこれほど大きな火星を見られるチャンスは15年後、2035年になります。火星が見えたところで何も人生に影響はしないですが、あと一ヶ月ほどは大きな火星を楽しめますので、ぜひ夜空を見上げてみてはいかがでしょうか。

地球と火星の軌道が最も近い、つまり火星の近日点(注2)あたりで起こる最接近のことを慣例として「大接近(注3)」といいます。反対に、地球と火星の軌道が最も遠く離れている、つまり火星の遠日点(注2)あたりで起こる最接近のことを「小接近(注3)」といいます。また、その中間あたりで起こる最接近のことは「中接近(注3)」といわれることもあります。小接近と大接近とでは、地球と火星の間の距離や、火星の視直径(注4)が、倍ほども違います。大接近は、15年から17年に一度ほど起こります。
火星の最接近は約2年2カ月ごとに起こるため、特別珍しい現象ではありません。しかし、大接近の頃には、火星が特に明るく、大きくなり、火星観察の大チャンスとなるのです。

国立天文台解説ページ「火星の接近ってどんな現象なの? 大接近って何?

僕にとって火星の大接近は一つの重要なイベントでした。前回の火星大接近は17年前、2003年のことでした。実は当時の火星の大接近は今年のそれに比べても接近しており、前回ほどの距離に近づくのは6万年ぶりであり、次回は西暦2287年まで待たないといけないほどの大接近でした。(とはいえ肉眼で見る範囲では今年の大接近とさして変わらない。)宇宙が好きな一人の科学少年だった、当時中学生の僕は学校の国語の先生の誘いをうけて、「宇宙の日」記念 作文絵画コンテストというコンテストに応募することになりました。当時からブログを書いたりはしていたものの、正直作文の能力(具体的には人になにかのメッセージを伝える能力)はあまりなかったように思うのですが、当の本人は読書感想文を免除してもらえるという喜びから楽しんで文章を書いていたことを覚えています。ちなみにちゃんと当時のブログ記事(2003年9月4日投稿)も残っています。(著作権的には微妙な部分もある気がしますが)ご笑覧下さい。

全く期待していなかったわけですが、予選を通過したらしく、市の科学館で行われる表彰式に呼ばれます。(ちなみにここはプラネタリウム・メガスターの開発者である大平貴之氏が育った地としても有名。)中学校1年生のときに、夏休みに相模原の宇宙科学研究所の一般公開に連れて行ってくださるなど、僕が機械工作好き少年から、宇宙少年に転換するきっかけとなった理科の先生の赴任先でもあり、再会を喜んだことを覚えています。

予選を通過して、その後どうなるかと思っていると、「お台場の日本科学未来館で行われる表彰式に来てほしい」との連絡が。未来館は2001年に開館したばかりで、新しい科学館でした。館のスタッフに別の科学館時代からの知り合いの方が何人かいらっしゃったこともあり、未来館は既に何度か遊びに行っていたので新鮮味は少ないとはいえ、賞に選んで頂いて、表彰していただけるのは嬉しい話です。結果としては、航空宇宙技術研究所理事長賞をいただくこととなり、作文絵画コンテストのページにも当時僕が書いた作文が今でも掲載されております(恥ずかしいけど興味ある方はどうぞ)

表彰式のときの当時の谷内少年の写真はこちらの表彰式の記事(2003年9月14日投稿)から見られます。副賞に頂いたLEGOのマインドストームよりも、宇宙飛行士の若田光一さんにサイン入り色紙を頂いたことがなによりのご褒美だったと思います。今でも実家にしまってあります。(ちなみに、高校一年生になると、今度は日本科学未来館で展示解説のボランティアをはじめまして、その初期研修のときに、当時館長をされていた、毛利衛氏とお昼ごはんを食べる機会があり、サインをいただくことが出来ました。家に宇宙飛行士をされた2人のサインがあるのは自慢です。)

2003年は火星が大接近に伴い逆行すると同時に、僕にとっては重要な転機だったようです。当時のブログを眺めてみると、その7月には鹿児島県の大隅半島にある宇宙科学研究所が所有する内之浦宇宙空間観測所を見学したときの記事(2003年7月29日投稿)なども残っております。このつい数ヶ月前の2003年5月、宇宙好きの方なら誰でも知っているであろう、「はやぶさ(MUSES-C)探査機」が国産の固体燃料ロケット、M-V(ミューファイブ)によって打ち上げられた場所でもあります。2003年当時の投稿に写真は見当たりませんでしたが、その後2010年6月の記事において当時内之浦を見学したときの写真が掲載されています。見学に伺った際、広報担当の方が大変優しく対応してくださり、M-Vロケットの管制室に通してくださったのです。ゆったりした雰囲気ながら、世界に類を見ないような独自技術や探査機で宇宙の謎に迫る研究を行う、という研究という知的な営みに刺激を受けたのを覚えています。


実は先述の宇宙の日作文絵画コンテストの表彰式があった翌月、2003年10月1日付けで、H2ロケット(種子島から打ち上げるやつ)を打ち上げていた科技庁傘下の宇宙開発事業団(NASDA)や作文コンクールで僕の賞の冠となっていた航空宇宙技術研究所と統合し文科省所管のJAXA(宇宙航空研究開発機構)が設立されました。作文コンテストの懇親会では大人の方々の話題は、省庁の再編に伴うJAXAの設立についての話題で持ちきりだったことを覚えています。文部省系の宇宙研と、科技庁系の2研究所が、かたや純粋な科学研究目的、他方が宇宙開発という全く違う色の目標をもっていて、統合は単純ではないぞ、という話を不思議そうに聞いていたことを思い出します。その後の組織の変遷を追いかけながら、僕はロケットを打ち上げることそのことよりも、宇宙の謎に迫る探索や観測のほうが好きなんだろうな、と気づくようになりました。中学生の頃に宇宙科学研究所に何度か見学をすることができ、宇宙好きになったことは現在研究者として生活していくうえで重要な一つのきっかけだったのだろうと思います。

内之浦宇宙空間観測所のロケット打ち上げの管制室での写真。